ロバート・シラー教授が、サプライサイド経済学の重要な要素(あるいは対をなすもの)であるラッファー曲線について話している。
もう1つエピデミックに伝染した例がラッファー曲線だ。
シラー教授がマイアミ大学での講演で、悪名高いラッファー曲線をナラティブの1つとして紹介した。
ラッファー曲線とは、レーガノミクスで減税を正当化するために用いられたロジックだ。
レーガン大統領を副大統領として支えたブッシュ大統領(父)は後に、こうした一連の考えをブードゥー経済学と揶揄した。
それでもラッファー曲線は共和党政権の度に息を吹き返している。
今年5月に提唱者のアート・ラッファーが大統領自由勲章を受けたのもその表れである。
シラー教授は、ラッファー曲線がナラティブになった瞬間の物語を話して聞かせた。
「1974年アート・ラッファーは、後の副大統領ディック・チェイニー、後の国防長官ドナルド・ラムズフェルド、WSJ記者のジュード・ワニスキーと会食をした。
ワニスキーは1978年の本で、ラッファーがレストランのナプキンにこういう図を描いたと書いている。」
ラッファー曲線
シラー教授は、この曲線が自明であることを茶化しながら説明する。
「夕食の場でラッファーは、税収がどう税(率)によって変化するか説明した。
当たり前だけど、税率がゼロなら税収はない。」
ラッファー曲線-税率0%
税率を0%から少し引き上げれば、税収が発生する。
これも当然のことだ。
「税率が100%だったら何が起こるだろう。
ここでも税収はないだろう。
稼いでも全部持っていかれるなら誰も働かない。
だから、ゼロに戻ってくる。
だから、曲線はコブ型になるはずなんだ。」
ラッファー曲線-税100%
つまり、ラッファー曲線とは定性的には自明であり、ほとんど意味をなさないということだ。
曲線の形状をある程度定量的に言い当てて初めて意味をなすものなのだ。
レーガン政権以降の米財政悪化を見る限り、この曲線が定量的に把握され適切に活用されたとは考えにくい。
シラー教授はもう少し中立に分析している。
これが意味するのは、何か求める税収の金額がある時、必ず2つの税率(AとBの税率)が存在するということだ。
・・・
彼は『これ(点A)が民主党の策であり、これ(点B)が共和党の策だ』と言った。
(教授、会場が受けたのを確かめつつ)すばらしい話だ。
ワニスキーが本や新聞記事で書いた後、バイラルに伝わったんだ。
サービス精神旺盛のシラー教授は後日談まで用意していた。
かのナプキンが、ワシントンDCの国立アメリカ歴史博物館に展示されているという話だ。
ワニスキーの死後、依頼を受けた妻が遺品の中から見つけて寄贈したものだ。
ところが、このナプキンからして疑義がある。
「唯一の問題は、ラッファーが後に、私はナプキンに書いたりしていないと言っていることだ。
母親から『他の人のそんな素敵な布のナプキンに落書きしてはいけない』と叱られたそうだ。」
普通、他人が落書きしたナプキンなど大切に保管したりしない。
何しろ、ラッファー曲線は当初「ラファブル(笑える)曲線」と揶揄されていたほどなのだ。
本人でさえ否定しているのだから、展示品は捏造である可能性が高いのかもしれない。
こんな些末な落ちからも、シラー教授は重要な結論を導き出している。
つまり、関係ないんだ。
真実か偽りかは関係ないんだ。
ナプキンはまだ展示されている。
ナプキンを展示するか否かは真実か偽りかに関係しないのだ。
同じように、ナラティブとしての有効性にも真実か偽りかは関係しない。
それでも経済や市場に大きな影響を及ぼす。
これまで、本流の経済学のうち、どれだけが人々の偽り、または真実と言い切れないことにスポットライトを当ててきただろう。
合理的とは言いがたい偽りもまた、経済・市場を動かしている。
仮に経済学が偽りを視野から排除するなら、経済学が力を失うのも当然の成り行きだ。
これこそシラー教授がナラティブ経済学を提唱する理由だろう。